おじさんが『三四郎』を読みなおして驚いた
2017/09/16
何のはずみか突然漱石を読みたくなって、久しぶりに『三四郎』を開いた。ぼくの中で漱石のベストは『三四郎』なので。読みなおすのは30年ぶりくらいか。それでもってちょっとばかし驚いたことがあった。
『三四郎』は、九州の田舎から東京に出てきた青年、小川三四郎が明治という新時代の中で一丁前の大人になっていく教養小説である。三つの世界、偽善家と露悪家、個人主義と利他主義、ストレイシープ、なんて小難しいことは抜きにして、三四郎の初々しい魅力だけでもたまんない1冊だ。
で、何に驚いたのかというと、広田先生にどっぷり感情移入してしまったのである。広田先生とともに物語が進んだような感覚。いやー驚いた。
昔々、若い頃は、当然のように三四郎の立場で読んだのである。行きずりの女に度胸がないと言われ、好きな女を前にして悶々とする。人と会って、勉強して、なんか少しずつ大人に、男になっていく。最初にこの作品を読んだ当時、この作品を無性に気に入ったのは、そんな「成長」へのあこがれだったはずだ。
それがだ。今回、三四郎のことはどうでもよくなっていた。若い奴がんばってるな、くらいの思い入れである。その代りに浮上してきたのが広田先生だった。広田先生ステキ、センセみたいになりたい、なのである。
言い忘れていた。広田先生とは、三四郎がずっと関わり続ける高等学校の英語教師。この先生の振る舞いが、一言ひとことがチョーかっこいいのである。広田先生は、頑なまでに出世や自己宣伝に対して興味を示さない。だからといって厭世的なのではない。時代の本質を見抜いているので「今」という瞬間にはどうも積極的な興味を持てない、という感じ。
先生のかっこいい台詞もわんさか出てくる。一番のお気に入りは
「熊本より東京は廣い。東京より日本は廣い。日本より……」で一寸切つたが、三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。
「日本より頭の中のほうが廣いでせう」と云つた。
だな。インパクトすごい。
一言で言っちゃえば、あこがれる大人というところだ。
ところがこの広田先生、歳はまだ40そこそこ。今のぼくよりずっと若い。なのにこの貫禄、かように世事に達観している。40でこんな人間になれるものなのだ。明治の教養人恐るべし。夏目漱石恐るべし。
三四郎そっちのけで、広田先生に夢中になった。歳をとるとはこういうことなのだなあ。