『文房具56話』は文具随想の白眉である
2017/09/16
串田孫一には「文人」という言葉がぴったりくる。
詩人で哲学者、随想も多く書いた。画も描いたし篆刻もした。『山のパンセ』をはじめ、目にする機会の多さから、随筆家――特に「山の随筆家」――という印象がぼくには強い。昭和キャンプファイヤーの定番ソング「燃えろよ燃えろ」――燃えろよ燃えろ 炎よ燃えろ 火の粉を巻き上げ 天までこがせ――も氏の作詞である。
一見穏やかではあるけれど、その対象や自分を深く思索した、ときには厳しい珠玉の作品があふれている。
そんな串田が文房具にまつわる随想集『文房具56話』を残した。彼にかかれば何の変哲もない文房具もにわかに輝きを放った。
帳面、小刀、白墨、消しゴム、ボールペン、などなど、著者が1915年(大正4年)の生まれだから、戦前〜戦時〜戦後を通じた、文房具の表情がつづられている。
読み進むにつれ、心のなかで少し目を細めてそれらの文房具を見つめているであろう著者の様子が浮かんでくる。それを愛着と、ひとことで言ってしまえばそれなのだけれど、ここでも優しい文章の中に深い思索が込められている。『文房具56話』は文具随筆の白眉である、と言い切ってしまおう。
ではなにがそこまで心を打つのか。
まず、文房具は串田にとって道具なのである。文筆はもとより、趣味においても心地よく進めるための仕事道具。そう、書斎が仕事場であり、文房具が仕事道具。仕事道具なのだからそれらに愛着を持つのは当たり前と言えば当たり前。大工が鋸や鉋を大事にする、料理人が包丁や鍋を大事にするのと同じ。
そしてこだわるところにはこだわる。縦書きの帳面を愛用する、小刀で鉛筆をけずる、萬年筆でなければ字が書けない、などなど。いい仕事ができるように、機能よりは自分の感触に重きを置いて道具を選び、大事に使い続ける。
さらにもう一つ。文房具を通して自分を、過去を、社会を見る。この観点が厚みを加えている。文房具を通して世界とつながっている感覚。レンズとしての文房具と言っておこう。文具の向こう側に見えてくるものがある。道具としての文房具にとどまらないところがさすがであり本書の魅力である。
文化というものは、ある底力を持った根強さはあるが、その上に築かれている部分は以外に脆いものであって、愚かな権力者が現れて、その文化を無駄なものだと無茶なことを言い出すと、簡単に崩れて、抵抗力がない。みんな落ちるところまで落ちると、却って気分がさっぱりしたような感覚を抱いてしまう。
実は私はそれが恐ろしいと思った。その点で、文房具類は、戦争中に質は落ち、殆ど役に立たないような代用品も現れたが、ともかく文化を守ろうとする抵抗があった。私はそれらの記念として、割箸に釘をさしたようなコンパスだの、ボール紙の雲形定規だの、アンプルに近い壜に入ったインキなどを大切に保存している。
本書に載せられている作品は1970年から73年にかけて雑誌『月刊事務用品』に掲載されたもの。串田は当時55〜58歳。今の自分にこのような目があるか、このような生活ができているかと自問すると心もとないし、うらやましいのである。