すぐびん

山歩き、読書や工作、おじさんの遊んでいる様子

検索

『「当事者」の時代』は熱い

      2017/09/16

「当事者」の時代 / 佐々木俊尚 / 光文社新書
「当事者」の時代 (光文社新書)
最近読んだ、いや、これまで読んだ中で最も熱い新書。著者の気迫がズンズン伝わってきて、読んでるこちらも胸の鼓動が高まる。

このところ、マスメディアの報道の不愉快さが鼻につく。政治でも社会でも、何か事が起ころうものなら寄ってたかってあげつらう。たいていの人はそんなに気にしていないのに、完膚なきまでに叩きのめす。悲惨なケースでは、渦中の人物が首をくくるまでその矛を収めることはない。特にテレビ各局が放送している夜のニュース番組にその傾向が顕著だ。悪の魔の手から社会を守る正義のヒーロー気取りのキャスターたち。ただし口先だけの。

書店で本書の帯の文句を見てビビッときた。

いつから日本人の言論は、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを勝手に代弁する<マイノリティ憑依>に陥ってしまったのか…

本書は、今のメディアが立ち行かなくなった現況を突っ込んで論じた一冊。マスメディアの報道になにかしらの違和感を感じている方には格好のテキストになるだろう。

メディア、マスメディアはもちろんネットメディアも含めて、が機能していない(著者はそう考えている)のはなぜか。その原因を情緒論ではなく、構造から説き起こしているところに読み応えがある。

論考をかいつまめば、いまのマスメディアは2層のレイヤーで構成されている。1層目は、フィード的で濃密な個人的関係に拠る情報で、決して表に現れることはない。2層目が、アウトサイダーの立ち位置から神の視線でインサイダーを見下ろす言論。この2層目を<マイノリティ憑依>と呼び、これがやっかいなのだ。マジョリティの周辺に追いやられているマイノリティになり代わって発言するものだから、楽だし、気持ちいいし、やりたい放題。そして、マイノリティ憑依は共鳴も共感も生み出さない。何も建設しない。

<マイノリティ憑依>がなぜこれほどまでに蔓延したのかは、戦後の左派言論(吉本隆明、小田実、本多勝一などなど)の変遷をたんねんに追うことで詳らかにしている。要は、戦後日本人の役割は複雑で、とうてい背負いきれなかったということ。それで当事者立場を放棄し、マイノリティの立ち位置に逃げた。

繰り返す。<マイノリティ憑依>は誰も幸せにしない。むしろ不幸をもたらすと著者は冷静に叫んでいる。新書としては大著な一冊に、気迫を込めている。

熱く語っているにもかかわらず、最後に至って、読者に「当事者であれ」とは求めない。自分は当事者の未知を歩む、という宣言で締めくくられている。こんな新書、これまでなかった。

 - 社会, 読書