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『探検家、36歳の憂鬱』が何なのか知りたい

      2017/09/16

探検家、36歳の憂鬱 / 角幡唯介 / 文藝春秋
探検家、36歳の憂鬱

『空白の五マイル』でいくつものノンフィクション賞を受賞した探検家、角幡氏のエッセイ集。ご本人は謙遜を含めて「雑念」を書いたと言っている。仮にそうだったとしても、ぼくの中では宇宙飛行士と並んで「2大カッコイイ職業」である探検家の雑念を読めるのはうれしいし、興味深々なのである。

本書には以下の8編が収められている。

  • 探検家の憂鬱
  • スパイでも革命家でもなくて探検家になったわけ
  • 行為と表現―実は冒険がノンフィクションに適さない理由
  • 震災―存在しなかった記憶
  • 雪崩に遭うということ
  • 富士山登頂記
  • 北極点、幻の場所
  • グッバイ・バルーン

それぞれ場面は異なるものの、共通のコアを持っている。それは探検とは、探検家とは何なのか、どうして自分は冒険にのめり込んでいくのかについて答えを出したいという著者のもがき。全編軽いタッチでつづられているが、深くて難しい問いとの格闘なのである。本書では、探検家ならではのそんな思索を、そこに潜むジレンマを包み隠さず語ってくれている。面白い。

例えば、今の探検・冒険は、昔のそれとは意味合いが変わってしまった。かつての探検・冒険には「人類初」が冠されていた。人類初のエベレスト登頂、極点到達、などなど。そこにはそれだけで一般の人が共感できる価値、社会的意味があった。あらゆる地点に人類が足跡を残してしまった今、もはや冒険は社会的な共感から離れてしまった。そして個人の行為になった。大きな物語を提示することのできない、個人的な事情から始められる行為に変わった。だから今の冒険はたいてい足枷がつく。「単独」「無補給」であったりより危険なルート選択であったり。著者はそんな時代の中で探検の「意味」を探そうとしているのだ。自然の中に入り込み、死のまぎわまで踏み込み、ヒリヒリする刺激の中で生感覚を活性化させたいという衝動。トラブルのない冒険(極端には死からの生還)でなければノンフィクション作品として使い物にならないという恐怖。それらの意味。

著者は自身の弱みもさらけ出す。探検家と聞くとストイックなイメージを持ってしまうが、なんのなんの。合コンに行っては、自分はもう世間的な幸せを手に入れることができないのかもしれないと落ち込む(探検家も合コンするしキャバクラにも行く!)。定職を捨て探検家として生きていく決断をした後で、生きていける自信を喪失し、布団の中でがたがたと震える。親近感を覚える一方で、こんな弱みを見せられるのは強さの裏返しなんだろうなと思ったりする。
読み物として面白おかしいのは富士山登頂記。最近の富士登山ブームの原因を考察した一編なのだが、著者が登山者の中に身を置いて感じた違和感が笑えた。山ガールはもとより、

男たちもピタっとした筋サポート機能付きのタイツを履いたり。下手をするとシトラスミントの香りがするデオドラントなどを振りまいたりして、町中でと同様、他者の視線を意識することに余念がなさそうだった。

探検記の中とは異なる探検家の一面をうかがい知ることができる一冊。角幡氏の今後の活躍がより楽しみになる。

なお、本書について著者ご自身がブログで語っています。
『探検家、36歳の憂鬱』本日より発売|ホトケの顔も三度まで

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