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『生命とは何か』を今読む

      2017/09/16

シュレーディンガーが驚いたのである。波動方程式で量子力学をつくり、猫で量子力学に決別した、あの理論物理学者が、生命を扱おうとしたとたん、「おいおい、今の物理学じゃ全然理解できないじゃないか」と。もちろんシュレーディンガーほどの天才が驚いただけで済ませるわけがない。なぜ驚いたのかを丹念に解き明かした。そして「今日のところは引き下がるが、いつまでも驚くと思うなよ」と、相手の急所を突きとめた。

72年前の『生命とは何か』

物理学者のそんな思考過程がつづられている『生命とは何か』は、1944年に登場した(日本では岩波新書として1951年に刊行)。遺伝学は黎明期で、そこに物理学者、それも量子力学の大家が参入してきたのだから、当時はさぞや衝撃を持って迎えられたのだろう。新しい研究領域を開こうとするこの意欲作にそのころ出会ったとしても、ぼくには難解で手に負えなかったに違いない。しかしそれから70年以上経って(今は2016年)、ぼくは本書が書かれたその後を知っている。物理学や生物学やがどうなっていったかを少しは知っている。今なら読めそうな。21世紀の今読む意味を意識しつつ、本書のすごさが伝わってくるところを拾ってみた。

生命の本質を見抜いた

生命とは何か、生物の定義は、これまでさまざまなものが登場していて、今でも議論され続けている。1944年にシュレーディンガーは生命の本質を二つ導いた。

生命を考えるにあたり、生きている細胞の核心部分として染色体に照準を当てた。シュレーディンガ―は、当時最先端の遺伝学を吸収し、それを物理学の視点で解釈する。染色体は極めて安定な物質であること、生物の進化(突然変異)は染色体中のほんの微小な領域が支配していることから、遺伝子は1000個程度の原子で構成される非周期性結晶(=分子)と結論した。遺伝学の最新情報と暗算とから「遺伝子の姿ってこんなもんだよね」まで行き着いたのである。これが一つ。

もう一つ、こちらの方が一層の核心で、「生物は負のエントロピーを食べている」と考えた。この表現はあまり適切ではなくて物議を醸すのだが、エントロピーの増大が押さえられていることが生命、生物の本質だ、とした。

物理学の限界を示した

生命の本質を突きとめたところで、冒頭に書いたようにシュレディンガーは驚いたのである。生命は、世界の法則をわかろうとこれまでせっせと築いてきた物理学の範疇にない、と。

まず、非周期性結晶が当時の物理学では扱えなかった。これまでの物理学が統計力学だったからだ。統計力学は、「物質が多数の分子から成り立つことを前提とし、これらの分子が古典力学または量子力学にしたがうものとし、たがいに力を作用しあって運動するときどのような性質をあらわすかを研究する(原島鮮)」学問だ。なので、物質を構成する原子・分子は多くなければならない。アボガドロ数くらいないとわかんないよ、ということである。また、固体であれば周期性(小さなユニットが繰り返し同じようにつながる)が前提だ。構成する原子数が少ないこと。統計力学では膨大な原子の平均値しか扱えないからだ。そして周期性結晶しか扱えない。1000個程度の原子からなる遺伝子は到底手に負えない。

そしてさらに厄介なのが「生物は負のエントロピーを食べている」だ。この世ではどんな物質でも放っておくと無秩序な状態(エントロピーが増加する方向)に向かうことになっている(熱力学の第二法則)。ところが生物はすごい秩序の塊に成長するのだから、この法則を無視している(エントロピーが減少する)ように見える。統計力学や熱力学ではあってはならないことが起こってしまっている。驚かざるを得ないではないか。ひとまず「負のエントロピーを食べる」という表現で問題を提示したが、恐ろしい問題である。

予言は当っている(ように今のところ見える)

遺伝子に関しては、この後、DNA構造発見、セントラルドグマ提唱、ゲノム解読と進んだ。howはかなりわかってきた。whyはまだこれからだろう。非周期性結晶の物理学である。物理学の出番はまだまだあるということだ。

負のエントロピーについては、今のところ散逸構造が担っていると思える。プリゴジンが、エントロピーは増大するはずなのに秩序ができるのはなぜ、という問いに対し、「それって非平衡開放系なのよ。エネルギーが流れていれば、自己組織化で秩序ができてもよいのよ」と提唱した。新しい物理学の萌芽である。今や非平衡開放系は盛んに研究されている。

シュレーディンガーの問いは極めて的確だったし、的確だったから後進はその問いに対する答えを見つけてきた。自然科学はなんで着実に進化していくのか、不思議なのである。

本書は分子生物学を切り開いた名著であり古典と称されている。歴史的意義に加え、科学者の洞察を目の当たりにできるところ、科学者おそるべしを感じさせてくれるところが今これを読む意味なのだ。

生命とは何か―物理的にみた生細胞 / エルヴィン・シュレーディンガー / 岩波文庫
生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)

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