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ヒステリックな叫びにしか聞こえない 『情緒から論理へ』

      2017/09/16

『情緒から論理へ』はそれ自体が非論理的に書かれているので、身をもって論理の重要性を教えてくれる一冊だ。

おそらく氏の言いたいことは、「気分で動くなよ、考えて判断して行動しろよ」ということなのだろう。まあそれはそうかもしれない。スポーツ選手以外には「猛省を促す」しかしない古館をたまたまテレビで目にしたりすると、私もそう思う。
しかし、そのことを主張したいがために「情緒側に振れた針を論理側に振り戻せ」と言われると、それは違うんじゃないの、と反論したい。

まず一つ目。
対立、あれかこれか、バーターでしか物事を考えないこと。のっけから対立軸の例(対義語)をこれでもかと挙げ、父性グループと母性グループとに気分で振り分けたうえで(論理はどこへ行ったんだ!)対立を煽る。そうなのだろうか?相反するように見えて、両方とも大切なことは多い。論理の重要性・必要性を訴えるために情緒を否定する必要はない。
昔々、小さな子供が両親から「父と母どちらが好きか」と問い詰められた。その子はまんじゅうを二つに割り、両親に訊いた。「どっちが好き?」と。
世の中、比べられない、比べちゃいけないものがあるってことだ。私は、論理と情緒どちらも大切だし、情緒と論理は対立するものではないと思う。

二つ目は本質的な問題。
情緒と聞いてまず頭に浮かぶのは岡潔の『春宵十話』だ。

 人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。

 頭で学問をするものだという一般の概念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。

方やもっと情緒を、方やもっと情緒から論理へ、だ。
氏は日本人が非論理的であることを示すために、道路の横断方法、太平洋戦争を引き合いに出す。さんざん語られている太平洋戦争での敗着と惨劇をいまさら並べるのもいかがかと思うが、氏はこれらが論理より情緒に振れているための不幸だとする。
私には、情緒が不足していたのではないかと思えて仕方がない。いずれも、当事者が自分のことしか頭になく、他を見渡す気持ち、すなわち情緒が足りなかったのではないか。論理より情緒が勝っていたのではなく、情緒が足りなかったから論理が失われたのではないかと考える。
(ついでながら、太平洋戦争において、そのときどうすればよかったのかくらいは意見を述べてほしい。人の間違いをあげつらっても意味ないし。)。

最後三つ目。
どうも使われている言葉に違和感がある。氏の言う「情緒」とは、「気分」「思いつき」「衝動」のことなのではないか。「論理」は「思考」のことなのではないか。些末なことながら『情緒から論理へ』がタイトルなのだ。

なにはともあれ、本書の内容は、「おれはこんなにいろいろ考えているのに、なんでお前らはそんなに単純なんだよ!」というヒステリックな叫びにしか聞こえてこなかった。

私の理想は、情緒豊かな論理である。

情緒から論理へ/鈴木光司/ソフトバンク新書
情緒から論理へ (ソフトバンク新書)

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