『スローターハウス5』は究極の生き方論
2017/09/16
スローターハウス5 / カート・ヴォネガット・ジュニア(伊藤典夫 訳) / ハヤカワ文庫
1969年に刊行されたカート・ヴォネガットの代表作。いつか読む本リストにアップしてからずいぶん経ってしまった。今回、kindleセールをきっかけにようやく読了。噂にたがわぬ名作だった。なにがすごいって、戦争を、そして人生をこのように描ききる理性と強さにただただ感服なのである。
冒頭、作者とおぼしき人物が、ドレスデンを扱った反戦小説のようなものを書いている、と語る。「ドレスデン」とはヴォネガット自身が体験した1945年のドレスデン爆撃のこと、そして「反戦小説のようなもの」がこの作品だ。ドレスデン爆撃は、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した無差別爆撃。ヴォネガットは、この理不尽な惨事の経験を自分の中で整理し、世に知らしめなければ収まりがつかなかった。しかし常套手段ではこの地獄のような体験を理解することも語ることもできない。25年の時間を要して、ようやくその方法を考えついたのだ。どのように処理したか。なんとトラルファマドール星人という異星人をあみ出したのだ。そして彼は、自分の分身であるビリー・ピルグリムを通して、自分の思索の結果であるトラルファマドール星人の世界観を語ることにした。その世界観には大きな二つの特徴がある。私たちが常識としている「時間」と「自由意志」を根底から揺さぶるものだ。
時間は消え去らない
あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづけるのである。……。彼らにとって、あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができるのである。一瞬一瞬は数珠のように画一的につながったもので、いったん過ぎ去った瞬間は二度ともどってこないという、われわれ地球人の現実認識は錯覚に過ぎない。
不幸なこと、悲しいことがあったとしても、すべての時間の中で、たまたまその瞬間は好ましくない状態だっただけのことだということ。不幸を嘆いてもなんの意味もない。理不尽な災いはそう捉えざるを得ないじゃないかということだ。
自由意志なんてない
わたしは知的生命の存在する三十一の惑星を訪れ、その他百以上の惑星に関する報告書を読んできた。しかしそのなかで、自由意志といったものが語られる世界は、地球だけだったよ。
時間や出来事は変えられるものではない。ただあるようにあるもの。起こることは生じるべくして生じるのであって、どうこうできるのもではない。作中で何度のリフレインされる「そういうものだ」となる。
この考え方は運命論とか決定論のような宗教的なものとは違う感覚だと思う。カオス的な感じがする。最近では脳科学の分野でも自由意志は錯覚に過ぎず、環境や刺激、習慣によって行動が決定されているとされつつある。
では、どう生きればよいのか
ヴォネガットは、以上のような思考をあみださないことにはドレスデン爆撃という酷い出来事を消化できなかった。この考え方は一見現実とはかけ離れているようだが、妙に腑に落ちるところもある。ヴォネガットの到達点なのだから、結構核心を突いているのではないかと思えるのだ。。
人生、楽しい時間は存在する。一方で恐ろしい出来事も必ず存在する。それを防ぐとか、どうこうすることはできないのだ。ではどうするのか?見ないようにするのだ。いやな時は無視し、楽しい時に心を集中する。生きていく上でできることはそれくらいだし、そうするしかないだろう。それ以外の生き方があるわけがない、ヴォネガットはこの作品でそう言い切っている。
そして最後に名言を。
神よ願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受けいれる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。