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ちょっとだけデカルトに触れてみた 『方法序説』

      2017/09/16

方法序説 / デカルト(落合太郎 訳) / 岩波文庫
方法序説 (岩波文庫)

科学、中でも西洋自然科学に関する話を読んでいると、どうしてもモヤモヤ感が残ってしまう。それは神と科学との関係だ。西洋(キリスト教世界)において神とは何か、キリスト教の神とアインシュタインの神とは同じなのか違うのか、スッキリしないのだ。そんなわけで、神と科学との接点の一つのような気がするデカルトに触れてみようかと。手近なところで、「我思うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」の『方法序説/デカルト(落合太郎 訳)/岩波文庫』だ(昔買ったままほこりをかぶっていたから旧訳ね)。

身構えつつページをめくっていくと、まず、意外と読めることに驚いた。いや、読めるというのは正確でないな。苦しまずに目を通すことができる。本書が、ガチガチの学者ではなく理性あるあらゆる人に読まれるために出版されただけのことはある。新訳ならもっと読みやすいのかもしれない。

デカルトはイエズス会の学校で教育を受けている。当時のインテリならこれは当然。しかし彼は文献解釈に明け暮れるスコラ哲学と決別する。現実を観察し、理論的に思考する理性主義、合理主義である。理性を拠り所に、あらゆるものを取り除いていき、最後に残ったのが第一原理となる「私は考える、それ故に私は有る」だ。そしていよいよ私にとっては肝心の神の存在証明に移るのだが、これは強敵だった。デカルトは第一原理から出発して神の存在にたどり着く。この過程がすんなりとは解せないが、おそらくこういうことだ。自分(デカルト)はあらゆるものを疑っている。そしてより完全なもの、真理について考えようとしている。言い換えれば自分は不完全な存在だ。自分が考え出そうとしているのは完全なもの。この完全なもの、もしくは完全なものを創り出した存在、それって神なんじゃないの。

したがって、完全なる神が創り出された森羅万象を少しでもより良く理解しようとする行為が科学。神と科学とは矛盾するものではない。むしろ神の存在は、科学の進歩にとっての駆動力となる。こうなると、理性の限界が現れた時点で、神の存在が怪しくなりそうだ。

神から離れて、実験およびそのデータ公開の必要性を力説しているところは(素直に公開できない状況を憂いているのだけれど)まさに科学的アプローチの萌芽を感じさせてもくれる。

おまけとして、本書にはデカルトの人生訓も語られている。法律・習慣を守り無駄な非難を受けないようにするとか、世間は変えられない、変えられるのは自分自身だけとか。400年後の今とあまり変わらないのは当然かもしれないが面白い。デカルトは出る杭になることをかなり恐れている。17世紀初頭、最高の知識人にもかかわらず、彼の高慢ではなく、ちょっとおどおどしたところが可愛らしかった。

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