科学哲学に入門する 『科学哲学の冒険』『1冊でわかる科学哲学』
2017/09/16
哲学は歌舞伎町である。深遠なメタファーではない。ぼくにとって怖い所、アンタッチャブルな領域と言う意味だ。なぜ哲学を怖がるのかとなると、本能的にとしか言いようがない。ヘビを恐れるのと同じ。
ところが一方で、怖いもの見たさという気持ちもある。そこで、哲学の区分のひとつである「科学哲学」に足を踏み入れてみた。「科学」ってつくと安心感があるからねえ。するとこれが「電子はあるか?」みたいな問題をあれこれ議論する、科学哲学は、なんとも癖になりそうな居心地のいい世界だったのだ。
入門書2冊、『科学哲学の冒険』『1冊でわかる科学哲学』
今回科学哲学を覗いてみるにあたり、まずは入門書として『科学哲学の冒険』と『1冊でわかる 科学哲学』とを読んだ。このチョイスがよかった。加えて、読んだ順番が『冒険』→『1冊』だったことも正解。『冒険』の興奮を『1冊の』で落ち着かせる、という流れだ。
『科学哲学の冒険』
すばらしい入門書だ。哲学がこんなにグイグイ読めていいものかと思うくらいページをめくる手が止まらなかった。スリリングなのだ。これを読まなければ科学哲学にハマることはなっただろう。
なんでこんなに面白いのか?
それは、著者の戸田山先生がとる立場、「科学的実在論」をなんとしても擁護するという気迫が込められているからなのだ。
科学的実在論とは、例えば電子を例にとると、「電子って目には見えないけど確かに存在していて、わたしたちは電子のほんとうの姿について知識をどんどん深めていっている」という立場。
あたりまえのように聞こえるけど、これはぜんぜん当たり前ではなくて、むしろ科学哲学の中では旗色が悪い立場らしい。その劣勢を挽回しようと、科学的実在論の魅力を訴えようと、その素晴らしさを熱く深く語ってくれる。
加えて、主張を読み手に届けるには読みやすく、わかりやすくなければならないのだが、その点も素晴らしい。
読みやすいのは、理系女子リカと文系男子テツオがセンセイの研究室でレクチャーを受けるという会話形式が功を奏している。こんなうらやましい環境で、得々と教えてくれたら聴き入っちゃうよ。文章も達者。
さらにわかりやすさを高めているのは、図表が極めて的確で親切なこと。特にこの表がすごい。
知識テーゼに | |||
Yes | No | ||
独立テーゼに | Yes | 広義の実在論 | |
科学的実在論 | 反実在論{操作主義、道具主義、構成的経験主義} | ||
No | 観念論、社会構成主義 |
科学哲学の主張をあざやかにまとめた優れものだ。科学哲学にはいくつかの立場があって、それぞれの関係がややこしいのだけれど、この表一つでスッキリ整理、落ちこぼれそうなところを救ってくれた。
本書のおかげで、科学哲学の基礎からかなり突っ込んだところまで知ることができた。
たとえば、「電子はあるか?」という問いに対して、
科学的実在論者は「ある」と答え、
反実在論者は「わからない」と答え、
観念論者、社会構成主義者は「まぼろしだ」と答える、
てな具合だ。
最後に念のためダメを押す。本書は科学哲学入門書の決定版である。
『1冊でわかる 科学哲学』
本のタイトルどおり、科学哲学の基本がコンパクトに収められている。普通に淡々とした筆致なので、『冒険』で興奮した頭を鎮めるのにもってこい。当然重なるトピックスも多いのでよい復習になる。被覆説明モデル、奇跡論法、悲観的帰納法、などなど。言葉が変われば、「戸田山センセイが言ってたのはこういうことだったのね」と、また理解も深まるというもの。
バランスもよく、戸田山先生(何故か先生を付けてしまう)が熱弁した実在論と反実在論の対立は一つの章にすぎない。また、クーンの『科学革命の構造』についてかなりページを割いている。
ぼくはこれを読んだ後、『冒険』を再読したが、いっそう『冒険』を楽しむことができた。
科学は何をしているのか、を理解するために
ぼくはどちらというと科学(自然科学)信者で、科学をかなり信頼しているし興味がある。だから科学読み物についつい食指が伸びる。その一方で読み散らかしてるだけじゃなんだしなあ、と自戒したりするものだから、科学とは何か、を勉強してみようと思い立ったわけだ。今回2冊を読んでみて、科学の目的や手法など、これまで漠然と思い描いていたことをあれこれ考えることができたし、正解がないということも知ることができてよかった。
さて、自分は科学的実在論、反実在論、観念論いずれに共感するかと自問してみると、これがなかなかスパッと割り切れるものではないことがわかった。
まず全体を眺めてみると、広義の実在論と観念論との間には広くて深い大洋がある。観念論は人間から独立した世界を認めないのだから。それに対して、実在論と反実在論との間は川だ。対峙しているけれど、お互いの歩み寄りというか落とし処を探っているようにも見える。
そこで自分はどうなんだと。観念論の立場はさずがにとれない。科学は人の脳の中で営まれているけれど、科学の対象(物質)まで概念だとなるとさすがに賛同しかねる。
戸田山先生に敬意を表して科学的実在論に加担したいけど、それも全面的に賛成は無理かなあ。科学の知識が真か偽かはだれにもわからないからだ。すべてを知っている第三者しかわからない、ってそれはたとえば神だろうけど、神はいないから結局だれにもわからないことになる。
すると消去法で反実在論ということになる。構成的経験主義あたりが落とし所かなと思う。ぎちぎち考えるとそうなってしまうんだよなあ。しっくりくる、とまでは言えないのだけれど。
こんなことを考えられたのも科学哲学に触れた大きな成果だ。一つの思考フレームを手にしたわけで、これから科学物の読み方が変わってくるのではと自分に期待している。