夢をあきらめないのはいいことなのか? 『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』
2017/09/16
希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 / 古市憲寿、本田由紀 / 光文社新書
ちまたには「夢を持て」「あきらめなければ夢はかなう」といった檄があふれている。この言葉、もっともだと思いますか?心地よく響きますか?本当に心地よいですか?一度立ち止まって、あきらめないことは幸せか、あらためて考えてみませんか。
本書『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』は、ちょくちょくテレビに出演しては意表を突くコメントをサラッと言ってのける古市憲寿氏の最初の著作で、ピースボートに乗り込んだ若者たちを対象としたフィールドワークの成果を披露している。次々と暴かれるピースボートのおぞましい内実も面白いのだが、ここでは脇に置いておく。肝心なのは、ピースボートを経験した若者たちを通して考察した「あきらめさせる社会」の提案だ。
「あきらめさせる社会」
Amazonの本カテゴリで「あきらめない」を検索したら1514件が挙がった。一方「あきらめる」は99件だが、その大半は「あきらめるな」と「な」が付いている。かように現代社会は圧倒的にあきらめないことを要求してくる。あきらめないことが成功への道であり美徳。あきらたらそれで終わりよ、なのである。
古市氏が提案するのはそのま逆の社会、「あきらめさせる社会」である。もうその辺でもがくのをやめなさい、と教える社会。なに、あきらめろってか、夢を持っちゃいけないってか。いえいえ。あきらめることを許さないのはかえって不親切だということ。
そもそもあきらめないことをこれほどまでに要求されるのはここ最近のこと。かつてはあきらめさせるものがあった。それは、かなり昔は身分であったし、ちょっと前は学歴であった。現代は違う。学歴に関係なく成功できる起業家、アイドル、ダンサー、声優、漫画家といった職業の方が、学歴が必要な「博士」や「官僚」よりもよっぽど魅力的に見えてしまう。そして惨いことに、企業家やアイドルとして成功するのはほんの一握り。残されたあきらめきれない大勢。
希望難民には冷たい
氏は、あきらめきれない若者たちのことを「希望難民」と称する。希望を持ちながら、それがかなわない現実の中で、終わりなき自分探しを続ける。そして希望のかなう見込みのなさから生じる「閉塞感」に苦しんでしまう。それが希望難民。いっそのこと希望を手放してしまえればどんなに解放されることだろう。
ここで考えてみるに、夢がかなう確率は極めて低いのに、それを捨てることを非難する社会は惨くないか。そして今の日本社会には夢をかなえるためのチュートリアルやラダーといった仕組みはない。自己責任でがんばれ、の社会。ちなみに、上で調べた「あきらめるな」本の著者たちは成功者なのである。勝者のきまぐれな言葉は敗者をおおいに傷つける。まやかしの希望や励ましは何の役にも立たない。よって「あきらめさせる社会」に帰着する。
受け皿はコミュニティ
では「あきらめさせる社会」を良しとした場合、あきらめた若者たちはどうなるのか。社会から放り出されるのか。はたまた反乱を起こすのか。どうやらどちらでもない。そこで「コミュニティ」の登場である。SNSやシェアハウスが暖かく包んでくれる。近ごろブームのコミュニティは、あきらめた若者たちの受け皿として、セーフティネットとしての役割を果たせるのである。あきらめたって大丈夫。若者にはコミュニティを与えておけばいい。
本書では、こんな今の社会のありようを「共同性」と「目的性」との2軸でわかりやすく説かれている。読中読後、希望難民化した若者をあきらめさせろという提案に抵抗、違和感は感じなかった。もちろんあきらめなくていい社会に越したことはない。じゃどうやってそんな社会に変えていくのか。それに対する答え(?)も著者は用意している。