「今」を歴史的に捉えることはできるのか 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』
2017/09/16
かつて日本人はキツネにだまされていたらしい。かつてと言っても遠い昔ではない。キツネにだまされるなんて昔話かと思っていたがなんのなんの、ほんの40年前、1965年頃までのことだそうだ。そして1965年頃を境にして、日本人はキツネにだまされなくなった。「何故か?」というのが以後著者が繰り広げる考察の発端になる。
本書『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか/内山節/講談社現代新書』のタイトルは半ば釣りのようなもので、話のきっかけにすぎない。実のところ私は民俗学の読み物かと想像して読み始めたのだが、そのような記述は若干あるものの、著者の論点は歴史哲学にある。
さて、1965年以降、その前と比べて何が変わったのか。経済的、科学的な価値観、テレビや電話といったコミュニケーション手段、教育内容など多くの環境が変化した。しかしこれらの変化だけではキツネにだまされなくなった理由をうまく説明できそうにない。
では1965年以前、キツネにだまされていた時代はどのような時代だったのか。ここで3種類の歴史が提示される。昔、村人たちは自分たちの生きる環境の中で、様々なものを改造し組み立て直してきた。たとえば、自然を改造した。川を造り変え水を引き田畑を作った。本来の自然は人間にとって厳しいものだが、それを自分たちの役に立つようにした。宗教を改造した。仏教と神道とを融合させたり、ヒンズー教の大地神からお地蔵様を生み出したりもした。そのような改造を脈々と伝えてきたのが歴史だ。歴史には「知性の歴史」、「身体性の歴史」、「生命性の歴史」の三つがあると説く。
「知性の歴史」は知識の伝達、「身体性の歴史」は技の伝達で、これらは比較的理解しやすい。問題となるのは「生命性の歴史」であって、自然と人間とは一体だという考え方はなかなか捉えにくい。何かに託さなければならず、それが物語という形となった。すなわち、村の自然、先祖そして自分たちが一体であることを物語に託した(キツネにだまされたのはその物語の一つだったということになる)。
本書は、なるほどそういう考え方もありかもしれないと思わせる興味深い歴史哲学序説だった。
最後に敢て素人の反論を一つ。著者はあとがきで、
精神文化が根本から変わったといってしまえば簡単だ。だがその内容は解き明かされていない。とすると現代の私たちは、歴史の変化の中味がつかめないままに漂っているということにはならないか、不明なのは精神文化だけではなく、私たちの存在そのものでもある。
と書かれている。
はて、現在を歴史的に理解することは可能なのだろうか。今生きている私たちに、今の状態を歴史としてつかむ必要があるのだろうか。「今」はいつの時代も常に漂っているものなのではないだろうか。私はそれで充分だと思う。松岡正剛氏は『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化/松岡 正剛/NHKブックス』の最後をこう締めくくっている。
日本の面影は、いまさまよっているかもしれません。けれども、さまよわない面影なんてないのです。大切なことは「おもかげ」や「うつろい」を主題ばかりでうめつくさないことです。まだ主題が何かがわからない方法から、蝶が羽ばたくか、蝉が啼くかを見るべきです。