書体は人格である 『文字を作る仕事』
2017/09/16
書体設計士がかっこいいのである。
文章を読むとき、本であれ雑誌であれウェブであれ、そこに使われている文字自体を意識することはなかなかない。けれど、ほんわか漂ってくる文字の雰囲気をなんとはなしに感じることがある。
ぼくは、家ではMac、会社ではWinを使っていて、するとMacを使っているときの方がなんか気分がよい。Mac好きだとか仕事嫌いだとかのバイアスを差っ引いてみても、やはりMacの方が使い心地よいのだ。その原因を探ってみるに、書体が大きな部分を占めているのではないか、と思い当たる。標準フォントのヒラギノは、どこか読みやすく気持ちよい。
また、文庫本は出版社ごとに使用される書体が異なっている。だから文庫ごとに印象が違う。たとえば岩波文庫で主に使用されているのは精興社書体で、この字を見るといかにも堅さ、難しさが伝わってくる。まあそれは明らかに先入観なのだが。
書体の影響力は意外と大きいのだ。で、この「書体」は、世の中の人工物がそうであるように、誰かが作っているのであって、書体を専門的に作っている人たちが書体デザイナー。
『文字を作る仕事』の著者、鳥海氏はその一人である(ご自分では書体設計士と称している)。鳥海氏は、縁あって書体デザイナーを仕事にしたときから本文書体、なかでも明朝体を作りたいと思ってきたそうだ。これまでに上述のヒラギノ明朝体、游明朝体などを送り出してきた。どれも素敵な書体なのに、まだまだ理想には到達していないのだとか。『文字を作る仕事』は氏が理想の明朝体を追い求める物語、「フォントクエスト」なのである。
本文用明朝体は明治のはじめに宣教師らによって活版印刷とともに伝えられて以来、およそ150年もの間、新聞、文学、研究書など、あらゆる印刷物において中心的な役割を果たしてきたし、今でもそうなっている。現代に生きている日本人は、明朝体を見て育ったと言ってもいい。著者が明朝体に魅せられた理由はおそらくここにある。本文書体における明朝体こそが活字文化の礎なのだ。
なぜ、明朝体がもっとも広く、そして長く使われているのだろうか。それは日本人にとって読みやすいからであるにちがいないのだが、なぜそれが読みやすいのか?ここに明朝体のさらなる深い魅力がある。というのも、明朝体はカテゴリー別にそれぞれが違ったデザインになっている。
本文書体では活字一字だけをとって論じてもはじまらない。日本語表記は漢字、平仮名、カタカナ、アルファベット、句読点などの記号が組み合わさってはじめて文章が表現される。つまり活字一字一字のデザインはもちろん重要なのだが、それだけではダメで、活字がくまれて文章になったときに読みやすいということがもっとも重要なことだ。
明朝体の場合、漢字、平仮名、カタカナ、アルファベットがそれぞれ全く違う様式でデザインされている。漢字は横線が細く、縦線が太く、横線の終筆にはウロコと呼ぶ三角の付いていてよく見るとかなり幾何学的な様式をしているが、平仮名は筆書きの楷書と行書の中間のような有機的な様式になっている。カタカナは筆文字の楷書そのもののような様式だし、アルファベットはイタリアで生まれたローマン体だ。漢字は漢語、平仮名は和語、カタカナは外来語、アルファベットは外国語の原点を示すものというように、言葉の役割と文字の役割がはっきりとリンクしているのが明朝体。それが読みやすさにつながっている。ちなみに、ゴシック体などはすべてが同じスタイルなので、長文は読みづらい。少なくとも明朝体のようにさらさらとは読めない。
さて、鳥海氏が目指す理想の明朝体とはどのようなものか。氏が写研に入社し、明朝体を作ってみたいと決意して間なしに、先輩の橋本和夫から授かった言葉がある。
「本文書体の理想は『水のような、空気のような』っていわれるけどね」
「水のような、空気のような」書体。なければ生きていけないが、当然のように自然にある存在。それが具体的どのような書体なのか、著者はそれを探求し続けているのである。
例えばそれを細胞に例えたりする。
たかが本文書体である。多くの人にとっては読めればいいのだ。だけど作り手としては拘りたい。本が人間の体だとしたら、文字は細胞に当たるのかもしれない。読者に物語を楽しく読んでもらうためにはその細胞が重要であると私は考える。だけど多くの人はそれに気がつかいないし、気がつくことがいいことだとは言えないし、むしろ気がつかないで気持よくないように没頭できる文字がいい文字なのだとも思う。
ぼくが思うに、水や空気と言ってもH2OやN2、O2じゃないのだ。美味しい水ってあるじゃない。清々しい空気ってのもあるじゃない。そういうことじゃないかと思うんだよな。
こうした書体を作る手法を、鳥海氏は引き算だと考えている。無駄を削って、削って、削って、最後に残った姿、それがすなわち個性であり、人格であって、そうなってはじめて「水のような、空気のような」書体に成りえる資格を持つとする。「水のような、空気のような」書体とは自分の人格なのだ。奥義を究めんとする武術家のようではないか。鳥海氏はかっこいい。
さらに、ここでは詳しく書かなかったが、『文字を作る仕事』には、鳥海氏を作りあげたと言ってもよい先輩の書体デザイナーたちへの思いが綴られている。彼ら、中でも鈴木勉、もことごとくかっこいい。
書体設計士はかっこいいのである。
そして、人生をかけて一途に仕事する姿にほれぼれしてしまうのである。