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『社会認識の歩み』 生きる力を身につける方法論

      2017/09/16

『社会認識の歩み』を3回繰り返し読んだ。パラパラ見返したのを含めれば、もう何度繰り返したかわからない。それほど濃い一冊で、読み込むほどに社会科学を見る目が開かれた。社会科学やるな、と。

社会科学への偏見を解く

というのも、社会科学に対する先入観、偏見がぼくにはあった。

社会科学はそもそも社会の真理を探究する学問分野。その真理が探究できているのか。比べるのが妥当かどうかはちょっと脇に置いといて、自然科学は宇宙の誕生にまで探求を深めている。方や社会科学には、このように次々と真理への扉を開けている感が伝わってこない。

ならば実用性はどうか。自然科学を利用した工学は、月に人を立たせ、一人に一台スマートホンを握らせた。社会科学は待機児童問題すら解決していない。社会科学の存在意義がよくわからないのだ。社会科学って必要なの?何かの役に立つの?大丈夫か、社会科学。

こういう生意気な奴を内田義彦は、「お前は人間が生きているという重さの意味をわかっていない。社会科学こそが人間らしく生きる方法を与えてくれるのだぞ」と教示する。ここでの切り口は古典名著の読み方。マキャヴェリ、ホッブズ、ルソー、アダム・スミスを引っぱってきて昏々と諭すのである。

個人・国家・歴史

人間は、一人一人が決断と責任をもって共同の仕事に参加(take part)しなければならない。

まずマキャヴェリで、運命(フォルトゥナ)をたくみに操作して、自分の目的を遂行するために主体的に行動すること(ヴィルトゥ)ーー個々人レベルの生き方のハウトゥーーを知る。

次に社会とは何かを考える。ホッブズは現実の社会を一旦ご破算にして、人間の自然状態から国家形成ーー集団作りのハウトゥーーを考え直した。それが『リヴァイアサン』。

さらに歴史的に見れば、そのおよそ100年後、ルソーはホッブズとまったく同じ方法を取りながらホッブズを批判し、自愛心と憐憫とから全く異なった社会『人間不平等起源論』を突きつけた。

スミスはルソーを拒否し、利己心と共感とを柱に、新たな道徳さらには経済学の基礎を構築する。

四者を一気にまとめ上げるこの展開には圧倒された。

(話はそれるが、ホッブズールソーースミスの関係は幾何学のアナロジーにも見える。ホッブズがユークリッド幾何学、ルソーが非ユークリッド幾何学(例えばロバチェフスキー)、アダム・スミスが解析幾何学、て感じ。)

社会科学の意義

以上のような思索の断片断片から、さらには体系から、結論よりも特にその方法論を学ぶことで、自己を失わず生きていく力を養うことができる。それが社会科学だ。

他によい方法があるか?宗教?今、宗教に囚われずに考え、決断する方法を問うている。ほーら、社会科学しかないだろう。わたしたち一人一人が深く社会を、自分自身をも含めて、見てゆく眼を養ううえに役立てる、それこそが社会科学の意義なのである。

ただし、日本には社会認識の眼を育てのを邪魔する状況が多々ある。その指摘については丸山真男と共通するものが見て取れる。

また、社会科学には思想が絡んでくるから厄介ではあるし、一口に社会科学と言っても玉石混合だろうから、玉を選び出すことが肝要かと。

社会認識の歩み / 内田義彦 / 岩波新書
社会認識の歩み (岩波新書)

 - 社会, 読書