神様は「何か」のメタファーなのだ 『物理学と神』
2017/09/16
『宇宙創成』、『異端の数ゼロ』などを読んでいると、様々な場面で神が登場する。西洋科学は神の意図を理解するための作業だからそれも当然なんだが、宗教(ここではキリスト教)に疎い私としては、科学がどう神と関わっているのかについて、頭を整理したいわけです。デカルトにも少々触れたことだし、そろそろ読んでもよかろうかと、買い置きしていたその名もズバリ『物理学と神』を開くことにした。
本書は宇宙物理学者の池内了氏が、神の姿を追いかけながら物理学の歴史と未来を語ったもの。ここで、物理学における神は、次のような変遷を辿ったとされる。
- 第1期:17世紀、デカルトやガリレイらによって、地上からはるか無限の彼方へ神を追放してしまった。
- 第2期:18世紀から19世紀、ニュートン以降、神の役割をどんどん奪い取り、神は不要と思われた。ラプラスの悪魔、マクスウェルの悪魔が登場する。
- 第3期:20世紀初頭、神はサイコロ遊びをすることが判る。
- 第4期:20世紀後半、世界にはカオスやフラクタルが満ちあふれているいて、そこかしこに神が現れる。
- 第5期:現在、人間原理などによって、神が様々な危機に瀕している。
神は現れては隠れ、悪魔たちにその地位を脅かされながらも、延々と物理学者たちを見守ってきたようだ。
本書を読んで、ぼんやり頭に浮かんだことが三つ。
一つ目。キリスト教世界では、神による啓示の書として聖書と自然界とがあるとされる。キリスト教とはほとんど無縁の私には(幼稚園はカトリック系だったけど)、聖書を書いた神と世界を創った神とは別に思えてしまう。聖書は一部の人が信じればよい話だが、世界を創った神は人類共通、いや宇宙共通の神なのだから。本書において、神はレトリックとして扱われている。しかし「何か」のメタファーとしての神は存在するのではないか。ビッグバンが本当だとしたら、そのトリガーを引いた「何か」を神と呼びたい。
二つ目。本書のテーマである物理学、自然科学をはじめ、音楽であれ建築であれ美術であれ、神をより表現しようと発展した結果、かえって神から遠ざかって行ってしまったように見える。これってパラドックスじゃないの?
三つ目。西洋人は神が自然を創ったと考えるんだろうな。一方、日本人は始めに自然ありきでそこに神を見出すんだろうな。
タイトルどおり、物理学の流れを把握するのはもちろん、神についてあれこれ考えるのにも役立った好著。手頃な新書なのも嬉しい一冊。