『経済学の考え方』 経済学はイデオロギー
2017/09/16
経済学には否定的な印象を持っている。よく知りもしない先入観だが胡散臭さいのである。だからこれまで近づかなかった。とは言え感覚的に拒否するのもいかがなものかと思い、今頃この歳になって足を踏み入れてみようかしらと企んでいる。まずはミクロだろうから『ミクロ経済学の力』をちびちび勉強開始。その傍らで全体観をサクッとつかむため『経済学の考え方/宇沢弘文/岩波新書』を読んでみたところ、漠とした胡散臭さの正体がかなりはっきりした。
経済学の流れをつかめる好著
アダム・スミスからこれが書かれた当時(1989年刊)までの経済学がコンパクトに整理されていて、その基本的な流れをつかむのに好適だった。アダム・スミス『国富論』(1776)を始点とし、「新古典派」(ワルラスら、1870~)→大恐慌(1930年代)→「ケインズ」→スタグフレーション(1970年代)→「新自由主義」(合理的期待形成仮説、マネタリズム、サプライサイド、など)という流れだ。素人にもわかりやすかった。
ただし問題もある。というのも、本書のタイトルは『経済学の考え方』だが、中身を正確に表せば『ケインズ主義者の考え方』なのだな。後半、新自由主義に対してむき出しの敵意があらわになる。反社会的とまで罵倒しているくらいだ。よって読む際には注意が必要なのだが、実はこのあたりが一番面白かったりする。
以下、門外漢が『経済学の考え方』を読みながら沸いてきた経済学に関するあれこれ。
ケインズ主義vs新自由主義
現在、経済学には二つの大きな流派がある。ケインズ経済学と経済学的新自由主義。ケインズ経済学は、市場経済を不安定なものとみなし、不況や失業を克服するために政府が積極的に経済に介入するべきとする。一方、新自由主義経済学は、市場経済が安定化作用を備えたものとみなし、政府は市場に手を出すなとする。
この二つは経済学者どうしで真っ向反目し合っていて、傍から見るにはめっぽう面白い。先に述べたように、本書の著者、宇沢弘文はケインズ経済学を信奉しているので、その側から見れば、ケインズ派は水戸黄門や大岡越前や遠山金四郎、対する新自由派は悪代官と越後屋という構図になる。ケインズ派は悪を懲らしめる正義の味方なのである。経済学ってそんな勧善懲悪のステレオタイプの戦いをしていてはよいの?
ぼくなりに考えてみると、ケインズ主義と新自由主義との根本的な対立は、次のように整理できる。
ケインズ経済学 | 経済学的新自由主義 |
「神の見えざる手」を拒否する | 「神の見えざる手」を受け入れる |
人(聖人)の手が必要 | 人の手は不要 |
理性 | 野生 |
ぼくたちはどちらかを選ばなければならない。どちらか選ぶしかないところが今の経済学がもたらす不幸である。両方正しいということはない。片方が正しければまだよいのだが、両方とも間違っているかもしれないのだから。
あえて選ぶとすれば、ぼくは新自由主義に軍配を上げるな。ケインズ派にならえば市場を操作しなければならないからね。どのように操作するのか?経済学は正しい操作方法を示してはくれない。その方法は神のみぞ知る、なのだ。すなわち「できっこない」ということ。誰が操作するのか。政治家か?官僚か?どちらもまっぴらごめんだ。そんな信頼できない操作はご免だ。よって新自由主義を選ばざるを得ないというわけ。
こういう対立を見せつけられると、つくづく経済学はイデオロギーだということがよくわかる。
経済学を学ぶ目的は、経済問題に対する出来合いの対処法を得るためではなく、そのようなものを受け売りして経済を語る者にだまされないようにするためである。
― ジョーン・ロビンソン
経済学の弱点、そして不遜
本書を読んで、経済学には弱点が二つあることがわかった。一つは、経済学が「社会をよくすること」を目的としていること。これがよい社会だ、と決まったものはない。あやふやな目標を持っていては迷走するに決まっている。まさに上述のようにイデオロギー対立を引き起こしている。
もう一つは普遍性がないこと。経済学が取り扱う対象があまりにも小さい。まず、経済学が研究されたのは主としてイギリスとアメリカ。そう、当時の覇権国家である。大国が自分たちをもっと豊かにしよう、とあれこれ画策したのが経済学だと言える。その他の世界のことは扱われていない。そしてデータ数が少なすぎる。
ちなみに、経済学は物理学のような自然科学を目指しているそうだが、上の2点は自然科学とは正反対の特徴である。
弱点があるから経済学はダメだなんて言うつもりは毛頭ない。誰にも弱点はあるので、これは当然だ。ぼくが感じていた胡散臭さの正体は、弱点があるにもかかわらず、あたかも全てをわかっているかのように振る舞うことである。一言で言えば不遜。できないことはできないと謙虚になった方がいい。物理学者は謙虚だ。
火星へ行ける日がきても、テレビ塔から落とした紙の行方を予言することはできない。
― 中谷宇吉郎