日本人(わたしたち)を知るための岩波新書青版5冊
2017/11/13
外国人に褒められては喜び、貶されても喜ぶ日本人。手を変え品を変えの日本人論、日本文化論にいちいち踊らされるのはバカバカしい。そんな無駄な時間をはぶくためにも、基本のところを押さえておきたい。そのために、以下の5冊を読んでおけばまずは充分だろう。日本人の特徴、本質がかなりはっきりしてくる。
政治思想、社会学、法学、宗教、文学と、5つの異なる分野から持ってきた。いずれも岩波新書の名著。1950~60年代の著作だがまったく古くない。今でもずばり通用する。人間はそうそう変わらない、変われないということだ。
様々な分野から選んだにもかかわらず、第一人者の見解は驚くほど共通している点が多い。「岩波」という枠ははまっているとはいえ、これだけ共通してくると、かなり的を得ているんじゃないだろうか。
1. 『日本の思想』丸山眞男(政治思想)
「自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった」と身も蓋もないことをばらしてしまった。
仏教的なもの、儒教的なもの、西欧的なもの、そしてシャーマニズム的なもの、あらゆる思想を揃えてはみたものの、それらはみな雑然と同居しているだけ。沈殿していると言ってもよい。それぞれの思想はもともと、高度な抽象を経た理論であり、強靭な伝統に対する必死の抵抗の表現であるにもかかわらず、日本人が取り入れる際には単なる常識的な発想になる。違った文化の精神的作品を理解するとき、それを徹底的に自己と異なるものとして対しようとする心構えもなく、「ああ、そういうことね」と簡単にわかったつもりになる。そんなものわかりのよさが、かえって何ものをも伝統化してこなかった。
考えるための伝統、基軸、よりどころを欠いているのだから、思想的問題が思わぬところから爆発的に出現せざるを得ない。
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2. 『社会認識の歩み』内田義彦(社会学)
「参加する」という一語で日本人の社会性を言い当てた。
「参加する」に対応する英語は「take part」とされる。この「take part」は、ある特定の人が、ある特定の部署を責任もって果たすという、一人ひとりの決断と行為と責任を背景にもった厳しい言葉なのだ。ところが「参加する」になったとたん、ともかく顔を出しておけばいいんだろう、くらいの無責任な言葉に化ける。さらに残念なことに、この無責任な参加が意味を持っていて、やたらに宴会に参加したり、そのついでに公式の会議に参加する。こういう付き合い的な参加をせずに、ある部署を責任もってはたすという「take part」しようものなら、逆にはじきとばされちゃう。だから「社会参加」なんて言葉の意味はおして知るべしである。
これ以外にも、日本には社会科学が育つのを邪魔する状況が多々ある。それは悲しいことだ。なぜなら社会科学は、自己を失わず生きていく力を養うことができる学問なのだから。
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3. 『日本人の法意識』川島武宜(法学)
日本の法律と日本人の法律に向かう意識とは悲しいくらいに「ずれ」ていることを指摘した。
「ずれ」を生じさせる原因はいくつかあるが、いちばん強烈で手の打ちようのない原因は、日本人は二元主義を理解しない、ということ。
西欧の思想には、理想と現実とのあいだに対置というか明確な境界がある。経験的な現実とは別のところに絶対的な理想がある。その両者のあいだにはつねに緊張関係があって妥協はない。ところが日本人にはこの区別がない。絶対的な理想というものを持たない。理想と現実とのあいだは常にあやふやで妥協が予定されている。だから本来理想であるはずの法を「なしくずし」的に変えていくし、法律は解釈によっていかようにでも結論できる、さながら「打出の小槌」となる。法を厳密に適用するのはもってのほか、都合よく「融通をきかせる」「手心を加える」ことが高く評価される。これを読めば、現代法は日本人にあってないとつくづく思う。
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4. 『日本の仏教』渡辺照宏(宗教)
上の3冊は明治以降の様子が中心だが、驚くべきことにその本質は1500年前から変わっていない。仏教という伝統宗教でさえも、日本は上っ面だけを自分たちの都合のいいように取り入れて今まで来た。なんせ、日本の仏教は「泥まみれ」なのだ。
仏教はインドから中国を経由してもたらされたから、印→中→日と2回変換されていて、日本に入ってきた時点で、本来の仏教、釈尊(シャーキャムニ)の真の教えとは違う姿だった。その上に日本らしさでアレンジされた。
仏教の根本は、自己と他者との完成のための実践である。そして戒律、禅定、智慧が基本の三条項。これを欠くものは仏教とは言われない。
ところが日本仏教にはそれらがほとんど存在しない。国家思想、呪術性、死者儀礼、妥協的精神、形式主義にまみれ、ことごとくと仏教の本来の立場からかけ離れてしまった。仏教の種々の道を捨て去って、ひたすら口でナムアミダ仏を唱えるという日本仏教が確立された。
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5. 『インドで考えたこと』堀田善衛(文学)
インドで堀田は日本のことも考えた。なかでもうならされるキーワードは「悪ずれした日本人」と「凹型の思想」である。
日本はアジア開放の先駆者を謳いながら、西欧帝国主義追随の先駆者となった。核兵器禁止を世界に訴えながら、自分は将来核兵器を持つための途はあけておきたい。こんな具合に二重性に無頓着な様が「悪ずれ」の典型である。
しかし世界中どこでも悪ずれした奴はいる。日本人はさらに、根本的な問題をいつもこの二重性の谷間につき落としてウヤムヤにしてしまう。ウヤムヤのうちに時間が経てば、それで済んだような気になる。この、なんでもかんでも吸い込んで音もたてぬ古井戸か深い淵のような「凹型の思想」が日本人には深く浸透している。もはや心性。そして、ここに決定的に欠けているものは責任、人間の責任という体系。
こういう心性の持ち主は、必ずや、当人がやっているつもりでいることと、実際にやっていることとが掛け違うはめになる。
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さて、これら5冊をもとにして、そこから何を考えていくかは人それぞれになる。
上でも述べたように、5名の意見はかなり似ている、共通点は多い。日本人の性質を乱暴にまとめてしまえば、以下の2点になる。
- 目新しい外の思想、文化を嬉々として取り込む。その際、本家が必死に築いてきたそれら思想、文化を、いとも簡単にわかった振りをする。生まれてきた根源を理解しようとはしない。表面だけ、形式だけを受けいれる。
- そして自発的には行動しない。被支配を好む(この性質を渡部昇一はガバナビリティが高いと喜んでいる)。世間の空気に合わせる。そもそも軸がないのであっちへこっちへとふらふらする。そして思わぬ結果を招く。
5名とも日本人だから、身内に対して厳しい言葉を発している。
だからといって自虐的になるのもいかがかとぼくは思う。一方で、そんな日本人が、少なくとも千数百年(二千数百年でもよい)、脈々と存在し続けていることはまぎれもない事実だからだ。西欧と違う点は多々あるだろう。とはいえ列強の植民地にもならず、太平洋戦争の惨状も乗り越えて暮らしている。軸がないからこれほどの生存能力があるのか、それはわからない。