すぐびん

山歩き、読書や工作、おじさんの遊んでいる様子

検索

『脳の意識 機械の意識』未来の脳科学はこれなのか

   

ここには、意識(クオリア)を科学的に解明しようだなんて無謀ともいえる挑戦計画が披露されている。科学者がそこまで言っていいんかい、と心配になりつつも、科学者だからこその責任というか気概がにじみ出ている。

クオリアとは、モノを見る、音を聴く、手で触れるなどして感じる感覚意識体験のこと。たとえば赤い花を見たときの「赤い」という感じ。笛の音を聴いたときの「ピーッ」という感じ。なるほどクオリアは確かにある。でもなぜあるのかがとんとわからない。それがクオリア問題。

赤い花を見てるんだから赤を感じるのは当たり前、クオリアだとかなにを難しく考えてるんだ、と言いたくなるところだがそうはいかないのである。波長700nmの電磁波が眼球に飛び込んできたからといって、それを「赤」と感じることには直接は結びつかない。たとえばクオリアが生じない視覚処理がある。左右の目に違うものを見せると、どちらか片方しか見えない(両眼視野闘争)。目で見ているのに見えないということ。片や、見ていなくてもクオリアが生じることもある。それは夢。目では見ていないのに、何か「見える」よね。クオリアなんて当たり前、では片付けられないわけだ。

このクオリア問題は科学では扱えない。なぜならクオリアは主観的なものだからだ。扱うのが難しいのではない。主観を排除し客観を尊重する科学では扱ってはいけないのだ。だから意識とは何かという問題は、もっぱら哲学者の領分になっている。

とは言え科学者も手をこまねいているわけではない。脳科学者たちは、クオリアは脳の中で発生しているのだろうと見当をつけている。脳はちょっとばかり手の込んだ電気回路に過ぎないのに、そんな電気回路にどのようにして意識が生まれるのか。それが意識の科学のメインテーマである。

これまで、意識と連動する脳活動を探索することにその主眼が置かれていた。NCCと名付けられた「意識体験を生じさせるのに必要十分な神経活動と神経メカニズム」が着々と明らかにされつつある。脳のどこかに意識の中枢があるのではなく、広範囲にわたって複雑に共存しているようだということがわかってきた。そんな中で、客観的な意識の担い手は神経アルゴリズム、とりわけ「生成モデル」なのではないかと著者は踏んでいる。

ところがなのである。NCCを特定できたら意識の謎が解けたかと言えばぜんぜんそんなことはないのである。脳を客観的に完全に解き明かしても脳の主観には一歩も近づかない。客観と主観とを結びつけなければならない。

じゃあどうするのか。

このあたりから著者のぶっ飛びが炸裂する。

どうやら機械的な神経回路――今ならコンピュータ――に意識は宿りそうなのだ。「フェーディング・クオリア」と呼ばれる思考実験によれば、意識を持った機械はあながち夢ではないのだという。

ところがところが、さらに問題が続く。

機械に宿っているかもしれない意識を検証する手法が存在しないのだ。意識を宿した機械は、あたかも意識を持っているかのように振る舞っているだけなのかもしれない。哲学ゾンビと呼ばれる存在だ。客観に頼る限り、機械が本当に意識を持っているかどうかを確かめられない。さあ、機械が本当に意識を持っているのかどうか、どうやって見抜く?

この先はネタバレになるので(ミステリの紹介か)、興味ある方は、その手段をご自身で確かめていただきたい。ちょっとだけ明かせば、「機械に意識が宿ったかどうか、おれが直接確かめてやる!」ということだ。その恐るべき手段を、著者は本気で考えている。

強烈なワンダーあふれる一冊。

 - 自然科学・応用科学, 読書