『安土往還記』織田信長と辻邦生との共鳴
文庫版で249ページ、大部とはいえない物語の中に、よくよく作りこまれた豊かな映像(イマージュ)が展開されていた。ずっしりとした読み応え。いやー、堪能した。
『安土往還記』は1968年に発表された辻邦生の代表作の一つ。そのタイトルから連想されるように信長物である。しかし世に多くある信長小説とは少々趣は異なる。もちろん信長が徹底的に調査考察されていて、著者の信長像、信長理解ではあるのだが、それ以上に辻邦生が自分の価値観を表現するうってつけの人物として信長を持ち出したに違いないと思えるのだ。彼に自分の思想を託したかのように。
物語は、宣教師とともに日本に来たイタリア人船乗りの手紙という体裁を取っていて、彼の目を通して描かれている。この設定を考えついたとき、著者の中でパッと閃光が発したに違いない。にんまり笑みを浮かべたかもしれない。拳をキュッと握りしめたかもしれない。それほどこの設定は素晴らしい。この作品を成立させるためには、イタリア人に語らせる他なかった。なぜなら、作品に込められているのは辻の精神性、価値観だから。
辻の価値観とは何か。
それは、自分が置かれた環境に埋没することなく、そういう環境と絶えず闘って、より高いものを創っていくこと。上ろうとする力、幸福になろうとする力の賛美。もちろん幸福になろうとする力を邪魔するものはあるが、それに抗して、意思と計画性とを働かせて創っていくこと。この精神が信長を通して表出する。
大殿ほど「事の成る」ことをもって、至上の善と考えた人物を見たことがない。彼は近侍二、三十名ほどの騎兵隊に囲まれて、野山を疾駆して作戦を指導するし、また彼は飾りのない単純な衣服を着用する。それがただ「事が成る」のに適っているからである。そしてまさにそれこそは私のような冒険航海者が危険と孤独と飢餓のなかから学びとった真実――すべてから装飾をはぎとった、ぎりぎり必要なもののみが力となるという真実――にほかならないのだ。私が大殿のなかに分身を見いだしたと言ったとしても、友よ、それを誇張とは受けとらないでくれたまえ。私は彼のなかに単なる武将を見るのでもない。優れた政治家を見るのでもない。私が彼のなかにみるのは、自分の選んだ仕事において、完璧さの極限に達しようとする意志である。私はただこの素晴しい意志をのみ――この虚空のなかに、ただ疾駆しつつ発光する流星のように、ひたすら虚無をつきぬけようとするこの素晴しい意志をのみ――私はあえて人間の価値と呼びたい。
このような価値観を当時の日本人が持つことは難しかっただろう。こんな信長像、信長の心情に近づけるのは西欧人しかなかったのである。ゆえに語り部は彼しかなかった。
作中、ことごとく、信長が生き生きしているのである。かつ美しいのである。恐れ多いことだが、ぼくは辻の思想に共感する。もし信長が美化されすぎていると感じたとしても、それは辻邦生の感性が美しいことの証左である。
発表から50年後、重厚な傑作に出会うことができた。